マチコ、マチコを語る

2005年06月05日現在のプロフィール

トップページに戻る

マチコこと松田弘子のプロフィール

1961年、長野県生まれ俳優翻訳者。よくも悪くも、左利き

趣味は、パッチワーク洋裁日舞スタートレック(というか、海外ドラマは、いろいろと好きなものがある)。絵を描くのも好き。


主な出演作品

青年団:
『東京ノート』『ヤルタ会談』『上野動物園再々々襲撃』(平田オリザ作・演出)
『フェードル』(ラシーヌ作/フランソワ=ミシェル・プザンティ演出)

あなざ事情団:
『三人姉妹』(わなたべ・なおこ構成・演出)

外部出演:
『かもめ 〜第2章〜』(チェーホフ作/ジャンカルロ・ナンニ演出) THE SHAMPOO HAT『雨が来る』(赤堀雅秋 作・演出)
あなざーわーくす『悪口学校』(シェリダン作/わたなべ・なおこ構成・演出)
飛ぶ劇場『ロケット発射せり。』(泊篤志 作・演出)

映画:
『あおげば尊し』『東京夜曲』(市川準 監督)
『進め!』(沖田修一 監督)(短編)


主な翻訳作品

戯曲:
『山羊――シルビアってだれ?』(エドワード・オルビー作)
『The Yalta Conference』(共訳。平田オリザ作)
『バタビア!』(バリー・ホール作)

演劇書:
『子どものための劇作レッスン』(ジェラルド・チャップマン著)
『劇作ワークブック』(ジャン=クロード・ヴァン・イタリー著)
『はじめての劇作』(デヴィッド・カーター著)
マチコ
高校生のとき、古文で、「文字言葉」というのを習った。昔の女官たちだかなんだかが、ものごとをズバリとあからさまに言うのを嫌って、「髪」のかわりに「かもじ」、「しゃくし」のかわりに「しゃもじ」というふうに言ったという、あれである。それでかどうかはっきりとはわからないのだが、当時、「もじ」ではなく「こ」を付けるのがはやった。消しゴムは「ケシコ」、藤村さんは「フジコ」。そして松田さんは「マツコ」になり、そのうちに、それがなまったのか、私がその頃町田さんという先輩にあこがれていたのと関係あるのか、とにかく、「マチコ」と呼ばれるようになり、現在に至る。
松田弘子
同姓同名が多い。私がパッチワークをするのを知っている友が、「長野東急のパッチワーク展に名前があった。すごいね」と電話してきたことがあるが、それは沖縄でパッチワークをしていらっしゃる別のかたである。

子供の頃、自分の名前は平凡で嫌いだった。「ミチル」とか「マリー」がよかったと思っていた(と思う。遊ぶときお人形の名前をいつも「ミチル」か「マリー」にしていた)。

字の説明をするとき、弘子の弘を昔は「弘法大師のコウ」と言っていたが、どうも通じなくなってきたので、「数字の36のような字」と言ったら、だれにもわかってもらえなかった。「鉄道弘済会のコウ」と言っていた時期もあるが、「弓へんにカタカナのム」というのが、結局一番通じやすいようだ。
長野県
長野県の県庁所在地は長野市で、私の故郷もその近くである。なのに、県外の人に「長野県」というと、「あぁ、松本」と言われるので、昔は私はよく気分を害していた。1998年の長野オリンピック以降、そういうことも減ってきたけれど。

長野県には、県民がみんな歌える「信濃の国」という歌がある。ホントにみんな歌える(長野県公式ホームページを見たら、「県民のほとんどが歌える」と書いてあった。「ほとんど」。この厳格さは、長野県的といえるのではないだろうか。そういうところは、私の中にもある)。
生まれ
台風で停電し、自家発電に切り替わった病院内で生まれたと聞いている。嵐の中で生まれたというのが、気に入っている。
俳優
中学三年生のとき、何も知らずに劇団四季の『ジーザス・クライスト=スーパースター』を見て、圧倒される。鹿賀丈史(ジーザス)、滝田栄(ユダ)、市村正親(ヘロデ)というキャスティングだった。その後、高校卒業まで、手当たり次第という感じで、さまざまな演劇公演を見た。といっても田舎のことで、新聞社主催の劇団四季の公演や、演劇鑑賞会の新劇公演が主。民芸『奇蹟の人』、『セールスマンの死』、前進座『山椒太夫』、SCOT『トロイアの女』などが印象に残っている。東京キッドブラザーズの長野公演は、開演がたしか30分くらい押して、帰りの電車の時間に間に合わなくなって途中退場した。

自分でやってみたいと思わなくもなかったけれど、中学校の演劇部はなんだか暗い演劇をやっていて魅力を感じず、高校の演劇部は敷居が高く(経験者以外お呼びでない、という感じだった)、大学に入るまでは観劇のみ。

大学では、演劇の公演があるたびにオーディションが行われていた。「通るにせよ落ちるにせよ、向こうが選ぶんだから気が楽だ」と思っていろいろと受けて、いろいろと出演した。別役実もやったし、シェークスピア(しかも英語)もやった。1年後輩の平田オリザが、青年団という劇団を作って学内で公演した。見て面白かったので、オーディションを受けて何本か出演した。

そのころは青年団も学内の演劇サークルだったので、卒業したらどこか別の劇団に入らなければと思い、当時好きだった劇団3つの入団試験を受けることにした。最初に試験のあった転位・21に受かり、他は受けないで転位に行った。ちなみに、あと2つの好きだった劇団は、第三舞台と鳥獣戯画。転位・21在籍中に、唐組の『少女都市からの呼び声』にも出演した。浅草で。あれはいろいろと思い出深い公演だった。

4年くらい経って、いろいろ行き詰まり、劇団を辞めて派遣のOLになる。1990年初めのことだ。いままで、バイトなどはしていたといっても、なんというかきっちり「社会人」をやったことがなく、演劇をやっていく上でそれはあまりよくないのではないか、理不尽におこられて給湯室で泣く、とかそういうのもやっておいたほうがいいのではないか、と思ったため。ところが、自分の適性に非常にあった仕事であったため、いきいきと楽しんで、がむしゃらに働く。機械翻訳システムのインストラクターとか、サポートセンターとか、そういう仕事。半年後くらいから、青年団に復帰。

ところが世の中は、不景気になり、「演劇も大事、仕事も大事」ではすまされなくなってきて、1994年春、退社。それ以来、青年団でずっと俳優をやっている。2004年に、わたなべ・なおこさん、倉品淳子さんと3人で、あなざ事情団というユニットも始めたが、お互いバラバラに忙しいので、なかなか公演が実現しない。
翻訳者
中学1年生のときに英語の先生に発音が悪いと言われ、なにくそ!と英語に力を入れたら得意教科になった。高校で1年間アメリカに留学もしたけれど、20代までの私の英語は、「習った表現を使ってみたい」というのが主で、言いたいこと、伝えたいことが特にあるわけではなかったように思う。30を過ぎて、発音が悪かろうが、文法がまちがっていようが、とにかく伝えたいからしゃべるんだ、日本人なんだから日本語なまりで何が悪いか――と開き直った。英語とのつきあいは、そんな感じである。

大学在学中からしばらく、映画会社の資料の翻訳をした。新作映画のあらすじとか、製作秘話みたいなの。実際に映画を見てみないとわからない内容もあり(ditectiveが探偵なのか刑事なのか、とか)、かといって映画を見てみられるわけでもなし、というあたりがむずかしかったが、私が訳したものがそのまま印刷物になるわけではないので、その点は気が楽だった。最後に翻訳した分は、けっこうページ数があったが、忙しい、めんどくさいといって、結局請求書を出さないでしまった。

その後、機械翻訳システムの販売デモや使い方指導をしていたときには、仕事柄、大型機械のメンテナンスマニュアルなど、技術文書に触れることが多かった。技術翻訳は、自分でも少しやった。会社ごとに、何はどう訳すといった決まり事がいろいろあり、煩雑ではあったがわかりやすくて、私にとってはやりやすかった。アルバイトの人たちに仕事を頼んだりという、翻訳のとりまとめの仕事もした。締切や約束は、守る人もいるし守らない人もいるということを知った。

1994年以降は、フリーランスでやっているが、青年団のホームページ、印刷物などの他、日本劇作家協会が発行している、英米の演劇書を日本語で出版するシリーズも何本か翻訳を担当させていただいている。戯曲の翻訳も、何本かおこなったし、今後もやっていきたい。

戯曲の翻訳に関して言うと、日本語は、英語に比べて話し言葉を書きとめにくい言語だと思う。「そうじゃない」が「当然そうである」という意味だったり「ちがう」という意味だったりする。こういった、話し言葉としては成立するが書くと情報量が減ってしまって意味が曖昧になってしまう表現を、どう戯曲に書きとめるのか、ということに、いま大変興味を持っている。
左利き
子供の頃、折り目や描かれた線のとおりにハサミで切ることが、できたりできなかったりするのが、非常に不思議だった。ときどき、「ここを切っている」と思ったところとだいぶ離れたところが切れるのである。不器用なのかと思っていたが、右手用のハサミを左手で使っていて、実際の切断面を見ないで切る形になっていたからであった。それに気づいたのは、成人したあとである。

家庭でも学校でも、左利きを矯正されたことはないが、字だけは右で書かされた。「左手で書いたら、(同じ形になっていても)それは字ではなくて、絵だ」と親から言われたのを覚えている。箸は、「保育園のお友だちと同じようにしたい」と言って自分で右に直したという。でもこの2つも、後になって自分で左に戻してしまった。20年(字)、30年(箸)右手でやってきた後でも、利き手のほうがうまくできるのは驚くばかりだ。
パッチワーク
8年前くらいから、趣味でパッチワークをやっている。始めたいきさつについては、マチコのキルトの項参照。
洋裁
中学の家庭科はミシンが旧式で、手順も、しつけをかけたりなんだりいちいち大変で興味が持てなかったが、その後、世の中には扱いの楽な機械や便利な道具がいくらでもあることを知り、自己流でいろいろとやってみたりしている。昔の、型紙が載っていた頃のSo−en(雑誌)には、技術の面でも考え方でも、だいぶ影響を受けた。
日舞
お師匠さんも俳優なので、公演があると何カ月かお休みになってしまい、私のほうも自分の公演があると行けなくなるので、何年もやっているわりにはあまり進歩がない。でも、動きや形が美しいし、お稽古するといい運動にもなるので、できるだけ続けたい。
スタートレック
スタートレックには、カーク船長が出てくる『宇宙大作戦』から始まっていくつものシリーズがあるが、私がいちばん好きなのは、ピカード艦長の『新スタートレック』だ。24世紀の世界には、飢餓も貧困もなく、貨幣経済もない。作者ジーン・ロッデンベリーのこのポジティブで楽天的な未来観が好きだ。他の種族の内政に干渉してはいけないという「艦隊の誓い」があり、『新スタートレック』では全シリーズ中もっとも艦隊の誓いが重要視されているところも、気に入っている。

登場人物では、ピカード艦長、データ少佐、ドクター・ポラスキーが好き。
海外ドラマ
『ザ・プラクティス』『ボストン・パブリック』『マクベス巡査』『アリー・myラブ』などが好き。昔むかしの『スパイ大作戦』や『刑事コロンボ』なども見られて、ケーブルテレビ、大好き。
絵を描く
高校生のときは美術部で、油絵を描いていた。いまは、自分のホームページに載せるイラストをマウスで描いたり、趣味でクレパス画を描いたりしている。2004年のあなざ事情団公演『三人姉妹』では、紙芝居の絵も担当した。

トップページに戻る