田原総一郎氏への反論の試み

僕が、このブログで久しぶりに原発問題を取り上げようと思った、そのきっかけとなったのは、田原総一朗氏が日経BPネットに書いた、『「脱原発」を唱えるだけの風潮は危ない』という文章である。

http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20120118/296616/

僕自身は、3.11以降、原発には反対である。なぜ反対かは、以前このブログにも書いたが、原子力発電が、少なくとも地震の多発するこの日本で運転するには、あまりに危険なシロモノだと思うからである。だって、今回の福島第一原発の事故により、「国土の一部が失われたも同然」の状態になったのである。自分の家を失い、そして自分の土地にすら帰ることができないという人が大勢いる、そんな大変な事態になっているのだ。だから、(即時か段階的かといった意見の相違はあるとしても)大きな方向性としては「脱原発」が当然だと思うし、まさか、この期に及んで、原発を「廃止しない・推進する」という態度など、どうかしている、と思っていた。

いっぽう、田原総一朗という人は、僕が学生の頃に既に第一線で活躍していたジャーナリストであり、気骨のある「まともな人」だとずっと思っていた。その田原氏が今回、『「脱原発」を唱えるだけの風潮は危ない』と言い出したのである。「脱原発」は、もう「常識といっても良いレベル」の考えだと僕は思っていたのに、僕よりも明らかに世界や日本のことをよく知っているはずの田原総一朗氏が、「脱原発」は危ない、という。田原氏は、いったいどうしちゃったのか。この疑問が、僕がこの問題を再考する、スタートであった。

そこで、自分自身の考えの整理も含め、田原氏への反論の形をとった文章を書いてみようと思い立ったのだが、何だかどうも引っかかるところがあり、まず、田原氏が文中で紹介している自著『日本人は原発とどうつきあうべきか 新・原子力戦争』を、とりあえず読んでみることにした。Webの文章というのは、要点だけ「かいつまんだ」文だったりするから、主張の背景となる著書を読んだほうが、よりきちんとした反論が書けるだろう、と思ったからである。

早速、田原総一朗著『日本人は原発とどうつきあうべきか 新・原子力戦争』を入手し、読んでみたのだが、その要旨は、上記の日経BPネットの文と、基本的に全く同じであった。しかし、著書を読み終えて、一つ発見したことがあった。田原総一朗氏は、実はWeb上でも書籍上でも、ある重要なポイントを、意図的にオミットしている(わざと書かないでいる)ということに、気づいたのである。いや、それを読者に気づかせるために、田原氏はわざと、ああいう文章を書いたのだ。たぶん。僕は、まんまとその意図に乗っかった、らしい。

田原氏の主張の内容は、上記の日経BPネットの文をお読みいただけば良いのだが、一応、僕なりに簡単に、下記に要約してみた。

田原総一朗氏の論旨:

・発電所の事故の危険性だけが「原発問題」ではない。
・原発は「放射性廃棄物」を生み出す。その廃棄物をどのように処理するかという問題も合わせて考えなければならない。
・石油の埋蔵量は限られており、石油供給の大きな部分を占める中東情勢の不安定要因もあるから、原子力は石油よりは「エネルギーの安定供給」に貢献する。
・しかし、ウランの埋蔵量も有限である。それでも日本が原発推進を進めて来たのは、「核燃料サイクル」という考え方に基づいている。
・原発から排出される放射性廃棄物を「再処理」すると「高速増殖炉」の燃料となるが、その「高速増殖炉」は、発電しながら新たな核燃料を作り出すことができる。この、燃料を再生産するサイクルを「核燃料サイクル」と呼び、これが実現すれば燃料供給の問題は大きく前進するはずだが、技術面では実現の見通しが立っていない。
・「脱原発」を叫ぶだけでは、上記のような放射性廃棄物の処理問題や、「核燃料サイクル」の研究まですべてストップしかねない。
・風力や太陽光発電で、現在の原発分の電力を補完するというのも、あまり現実味があるとは言えない。
・脱原発派は高速増殖炉を否定するが、しかし科学技術というものは「夢」がないと進歩しない。脱原発の一番の問題は、「夢」を全部消してしまうことだ。

だいぶ割愛したが、およそ、上記が、田原氏が「脱原発」と言うだけではダメ、という論拠である。

僕はこれを読んで、ずいぶん「おかしな話」だと思った。「放射性廃棄物の問題」というが、原発を止めれば、とりあえず放射性廃棄物はそれ以上には増えなくなる。「脱原発」によって「廃棄物処理問題」までストップしかねないというのは、話が飛躍している。原発の運転を止めても、廃棄物処理の研究は継続してできるはずだ。

また、最後の一項の、「夢」を消してしまう、というのも、明らかにバランスを欠いていると思った。原発は、今、現に、福島の人々の「夢も希望も」打ち砕きつつあるのである。そういう事態にあって、何が「夢」か。現在「核燃料サイクル」構想は、実現の見通しはとてつもなく遠く、ほとんど「破綻」と言っても良いような状態である。「高速増殖炉」なんて、実際に稼働できるとしても何十年も先だと言う。そんな、「頓挫しかかっている」研究が、国民の生活を危機にさらしてまで追い求めるような価値のある「夢」だというのか。

上記の箇条書きではうまく表せなかったが、とにかく、田原総一朗氏は、どういうわけだか「核燃料サイクル」と、その一環である「高速増殖炉」の重要性を、特に強調しているのである。なぜそこまで強調するのか。そこが、なんべん読んでも、僕にはアンバランスだとしか思えなかった。Webの文も、著書『日本人は原発とどうつきあうべきか』も、田原氏の主張が、あまりにアンバランスに思えてしかたない。

そこで僕は、田原氏が強調する「核燃料サイクル」「高速増殖炉」をキーワードに、自分でもう少し調べてみることにした。すると、そこには、僕が今まで気づいていなかった、別の「原発推進の意図」があることが、次第にわかってきた。そうだ、きっと田原氏は、読者にこの「別の意図」を気づかせるために、わざとこの問題をオミットして文章を書いているのだ、と僕は確信するに至った。

その問題とは!? と、こんなにもったいぶらなくても、知っている人には「何を今さら」なことなんだろうが、「核燃料サイクル」の一環である「高速増殖炉」で再生産される燃料、これは非常に純度の高い核物質であり、それは核兵器の材料となり得るのである。というか、むしろ逆に、「高速増殖炉」というのは、元々は核兵器の材料を作るための炉として開発された、と言っても過言ではない。たぶん。

こういうことを書くと、あわてる読者の中には「おいおい、今さら日本が核武装するとかの話? どういう時代感覚してんの?」とお思いになる方もいるかも知れないが、そういう話ではない。

日本の核武装を目指してる人がいるとか、そういう妄想の話をしたいのではない。日本は核武装は、しない。ただ、核武装するしないとは関係なく、「高速増殖炉」(原型炉[もんじゅ]の名前はご存知だろう)が、「核兵器の材料を作ることができる設備」であることは、事実である。実際、今までの試験運転などを経て、日本にはすでに、核兵器の材料にできる純度の高い核物質が、何十キログラムも存在していると言われている。しかし、いくら核兵器の材料になると言っても、日本においては、それが核兵器に転用されるようなことは、絶対にない。それが日本の「国是」である。

しかし。海外の国々は、果たしてそう信じるだろうか。

日本人は「普段はニコニコしているが、内心は何を考えているのかよくわからない」。あの連中、いったん気が狂うととんでもないことをするやも知れない。何しろ「爆弾を抱えた飛行機で敵艦に体当たりする」などという無茶な作戦をやるような連中だ。いざとなったら国際法なんか無視していきなり核ミサイルを超短期間で完成させちゃうかも知れない。なんたって日本人モノスゴク器用だし。そんで窮地に陥るとモノスゴク団結するし。

というような話を、アメリカが、どっかの国に対してアドバイスしている事態を想像してみてほしい。「日本は核兵器を作らないと、口では言っているけど、いざとなったら、やるかも知れない」と他国に思わせる。その恐れをいだかせる。これだけでも「核の抑止力」としては機能する。こういう方法を専門家は「技術抑止」と呼ぶらしい。おそらく、今現在、すでに[もんじゅ]は、そのようにも機能している、と思う。それはおそらく、アメリカの軍事戦略に組み込まれている。日米同盟に基づくアメリカの軍事戦略のために、日本の地域住民が危険にさらされるのを、やむなしとする。これは沖縄の基地問題と同じ構造である。

しかし、このような「軍事目的」については、日本政府は「口が裂けても言えない」。だって日本は核を「平和利用」以外に使わないのが「国是」なんだから。あくまで表向きの「平和利用」「発電」という目的を前面では保持し続けなければならない。もちろん、発電自体も原発の主目的の一つ(つうか当然そっちが主)である。しかし「軍事目的」が全くゼロということは、おそらく無いだろう。きっと少しはある。そこには上述のようにアメリカの戦略があるだろうし、あるいは、日本がアメリカの支配下から脱して軍事的独立への道を模索するような思惑、も絡んでいるかも知れない。そういう「国策」とか「国防」とかが関係していて、かつそれが、表向きの非核三原則という「国是」に反しているから、だから、原子力政策は、かくも不透明で、曖昧で、隠蔽体質にならざるを得ないのである。という仮説は、いかがだろうか。

このような想像力を働かせると、日本政府がなぜ原発を即廃止にしないのか、ということの、説明が、つきやすいとは思わないか。「脱原発」には、実はアメリカが難色を示している。あるいは、普通の原発(軽水炉)は止めてもかまわないが「核燃料サイクル」研究は継続せよという「アメリカからの強い要請」がある、のかも知れない。アメリカは、(あくまでアメリカのコントロール下で)日本に核兵器開発技術をキープしておきたい。だから、日本政府は「脱原発」に踏み切れない。

いやもちろん、それが全てではなかろう。原発推進派の人達が全員「アメリカの犬」だとは思えない。報道されているような「原子力村」の構造もきっとあるだろうし、自分たちの目先の利益のために国民の生命や健康を犠牲にするような連中も、きっとたくさんいるだろう。でも、そのような「私利私欲」「権力」「腐敗」といったレベルじゃない、敗戦国民である日本人である限りはどうにも抗えないような「強大な力」が、そこに、背景としてあるんじゃないだろうか。僕はそう想像するのである。

しかしこれらの話はすべて、僕の想像の域を出ない。僕のような一般人は、こういうことをこういうところに想像だけで勝手に書いても、所詮ネット上の戯れ言にしかならないから別に問題無いのだが、田原総一朗クラスの人は、たとえ確信があっても、具体的な証拠なく公の場に勝手なことを書き散らかすことは許されない。だから、田原氏は、あえて、自分が確信している「その存在」を示唆するために、あのような挑発的な書き方をしたのではないだろうか。

ずいぶんと話の風呂敷が広がってしまったが、最後に、僕自身の今の考えを、もう一度書いておく。色々考えても、それでも僕は、日本国内の原発は即時停止するべきだと思う。細かい議論は置いておいて「とにかく、まずは稼働中の原発の運転を停止すること」。その意義は、やはり大きいと思う。なぜなら、僕たちがすべきことは、世界戦略を妄想する前に、まず、目の前の、自分や家族や友人の危険を排除するように努めること、だと思うから、である。

参考文献:
田原総一郎 『日本人は原発とどうつきあうべきか 新・原子力戦争』 PHP研究所
加藤典洋 『3.11 死神に突き飛ばされる』 岩波書店


カテゴリー: 社会