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集団で作品を作るには

舞台制作の話題
1999.9.22

青年団の舞台(装置や照明)は非常に計画的に作られる。前もって劇場の下見をし、舞台の大きさや高さを調べておくことはもちろん、資材の搬入経路の広さだとか、大道具のトラックはどれくらいの大きさのものまで横付けできるかとか、残響が多いからセリフが十分聞こえるように客席の形を変える必要があるとか、とにかく事前に徹底的に調査をし、計画を立てる。青年団では、劇場に行く前の計画、すなわち「プラン」を非常に大事にする。劇場に実際に行ってみて戸惑うことの無いよう、時間と労力をプランに注ぎ込む。
普通「プラン」というと、舞台の場合は美術や照明のデザインプランを指すことが多いが、青年団の計画性は何もデザインに限った話ではない。劇場での人員配置や仕込の手順、タイムスケジュール、といったことはもちろん、余った資材をどこに持っていくか、劇団員の昼食をどこで調達するか、打ち上げの宴席をどこにするかといったことまで、可能な限り前もって計画を立てる。とにかく、事前にできることは全部やっておこう、という考え方である。これを私は「プラン指向」と呼んでいる。

「プラン指向」の反対は「現場主義」である。

事前に計画を立てても、どうせ劇場に行ってしまえばその場の事情で状況は変わるんだから、行ってから色々考えればいい

という考え方である。もちろん、すべてのプロダクションを「プラン指向」「現場主義」というように明確に区分できるものではなく、あらゆるプロダクションは、どちらに寄っているという傾向はあるにしろ、両者の中間である。青年団というプロダクションは非常に「プラン指向」に寄っている、ということである。

普通に考えれば、もし仮に現場での時間が無制限にあるなら、すべての舞台は「現場主義」で制作可能であるように思える。時間の制限が仮にまったく無いとすれば、多くの舞台人は、あらかじめプランなどせず、全て現場で作ろうとするのではないだろうか。しかし私は(そしておそらく青年団の他のスタッフも)そうではない。たとえ完全に現場で作ることができるような環境と時間があたえられたとしても、私は現場に机を持ち込み、そこでまず「プラン」を作成するだろう。
以前ある演出家に、「もし劇場での時間が十分にあったら、現場で全てを作りたいとは思わないか」と問われたことがある。その時も今も、私の答えは「否」である。現場で全部できそうなもんなのに、私はわざわざ、計画を立てようとするのである。これは一見馬鹿らしく見えるかも知れない。この馬鹿らしさを言うために「プラン主義」ではなく「プラン指向」という言葉を使っている。

ではなぜ私がここまでプランを指向するのか。その理由は、集団の力は個人のプランが結集した時に最大限に発揮される、と考えているからである。

「現場主義」とは、結局、その場所で、その場にいる人で、一つの作品を作る、ということである。要するに、「みんなで作る」ということだ。だから、現場でモノを作るには、その場でのコミュニケーションが不可欠である。参加する者は、他者とのコミュニケーションを通じて自分自身を作品に反映させていく。しかし、人のコミュニケーション能力は様々であり、結局はコミュニケーションが良いほうが良い作品が出来ることになってしまう。優れたコミュニケーションによって優れた作品ができれば、それはそれで誇るべき事だと思うが、私自身は、それとは少し違う方向を目指したいと考えている。

先日、青年団の美術家が良いことを言っていた。彼に言わせると「図面は表現だ」という。私も同感である。「図面は表現だ」という言葉がわかりにくければ、「図面は作品だ」と言い替えても良い。そして、図面とはプランの表現である。そう、プランとは、一つの完成された作品なのだ。プランは常に、一人によって作られる。「プラン指向」とは、個人があらかじめ(作品としての)プランを完成させ、それを持ち寄ることで作っていく方法である。プランを持って集まった参加者は、直接のコミュニケーションで意志の疎通をする前に、まず互いの作品=プランを「鑑賞」する。だから、「プラン指向」のプロダクションにおいて参加者に必要となるのは、コミュニケーション能力ではなく、プランを作品として理解させる能力、つまり「表現力」である。

青年団のスタッフ間では、他のプロダクションに比べると作品内容についての議論は非常に少ない。これはコミュニケーションが少ないと言い換えても良い。それはそうだ。我々は常に、「口ではうまく言えない」ことをやろうとしているからである。対話やコミュニケーションに頼った創作手法からは、対話/コミュニケーションで伝わる範囲のものしか生まれてこない。私は、「対話」には限界があると思う。創造したものを全て対話の土俵に乗せるのは不可能だと思う。だから、対話やコミュニケーションに頼らずして「表現力」を最大限に発揮できる方法を模索している。「プラン指向」はその結果なのだと考えている。

事前にプランを立てても、劇場に行ってしまえばその場の事情で状況は変わる。そんなことはあたりまえである。だからといって、そんなことはプランを立てるのを放棄する理由にはならない。

人生には何があるかわからない、ということはわかりきっていることだが、だからといって「どういう生き方をしたいか」を考えることを放棄するつもりは、私はない。

私の結論:集団で作る、ということと、みんなで話し合って作る、ということは必ずしも一致しない。


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岩城 保(Tamotsu Iwaki)
iwaki@letre.co.jp