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貝殻は燃える

「常識」の話題
2001.3.9

私が所属する劇団青年団は東京の劇団だが、東京以外でもよく公演を行う。これまでも東北、近畿、九州をはじめ、数多くの場所で公演を行った。旅公演も地元東京での公演も基本的にはやることは同じで、事前の計画・打ち合わせさえしっかりしておけば公演を行うこと自体に問題が起きることはほとんどない。しかし旅公演の場合、宿泊や食事といった生活面で色々とやらなければならないことがあり、これが時々問題の原因となることがある。

「舞台は非日常である」というのは言い古されていることであり、青年団においても例外ではない。青年団の演劇が日常を描いているかどうかという議論はここでは置いておいて、演劇という行為を冷静に見てみれば、大道具や照明が設置された舞台の上で、俳優が決められた動きをしながら決められた言葉を話し、大勢の観客がそれを黙って見る、ということであって、これはどう考えても相当特別なことであり、日常とは言えない。しかし、宿泊や食事といった生活面のことは、人間ならだれでもやっていることであり、こちらはまったく日常のことである。日常のことは「常識」が幅を利かせるため、なかなか細かいことまで打ち合わせが及ばない。一般常識となっていることはわざわざ確認する必要がない、と、普通は考えるからである。

世の中、「常識」とされていることは多くある。私たちが無意識に使っている常識は、日本中どこへ行っても通用するものがほとんどである。この情報化時代、まさか地方によって「常識」がそんなに違うわけはない、と普通は考える。しかし旅公演に行くと、その考えが誤りであることを痛感する。常識同士がぶつかり合う好例が「ゴミの分別」である。

全国には様々なゴミの分別方法があるが、最も多いのは「燃えるゴミ」「燃えないゴミ」の二分別方式である。ところがどっこい、何が燃えるもので何が燃えないものかが、土地によってかなり異なるので驚かされる。みなさんの土地の分別で、以下のものの内、いくつが「燃える」だろうか。

これらはいずれも、土地によって「燃えるゴミ」だったり「燃えないゴミ」だったりするものである。ちなみに東京では上記は全て「燃えない」。私の経験則で言うと、東京は日本で最も「燃える」ものの少ない土地である。より正確に言うと、東京の「不燃ゴミ」とは「燃えないゴミ」ではなく、「燃やしてはいけないゴミ」である。上記の中には、物理的には容易に燃えるものもいくつかあるが、それらを燃やすと焼却炉内で有害物質が発生したり、焼却炉自体が傷んだりするので燃やしてはいけないのである。東京在住で、上記の内のいずれかを「燃えるゴミ」に出していた方、この機会に是非覚えておいていただきたい。

全国どこでも「燃える」のは、紙・木・生ゴミである。逆に全国どこに行っても「燃えない」のは、ガラスと金属だけである。魚や家畜の骨、カニやエビの殻などは生ゴミなので「燃える」。貝殻も、物理的には燃やすのは相当難しいが、日本中どこでも「燃えるゴミ」である。これら以外、つまり紙・木・生ゴミ・ガラス・金属以外のものについては、行く土地ごとに「燃えるゴミですか?燃えないゴミですか?」と尋ねなければならない。劇団にはそういうことを尋ねる係もちゃんといるのだが、土地の人にそんな質問をすると、「そんな常識も知らないの?」という顔をされることも多いようだ。しかしこちらは真剣である。ここで「あんたの土地に合わせてやろうって思って尋ねてるのに!」などと逆ギレしていては芝居はできない。

2002年に公演で行って知ったのだが、2001年10月より北海道富良野市でスタートした新しい分別方式では、「燃えるゴミ」という分類が無く、また「生ゴミ」が独立の分別になっている。つまり、富良野市では、貝殻は燃えない。富良野市のごみ処理は非常に徹底していて、かつ強いスタンスでのぞんでいるところがとても興味深い。様々な示唆に富んでいるので、ぜひ一度ご覧いただきたい。−−2002.8.3 補足

ゴミ処理はたいてい行政の仕事なのだから、行政の側でもっときちんと、「これは燃える」「これは燃えない」とアナウンスしてほしいものである。例えば以前公演で行った山形県遊佐町の収集用ゴミ袋には、何が燃えて何が燃えないかが絵入りで詳しく書かれていた。全国の行政もぜひ遊佐町を見習って、収集用ゴミ袋に燃えるものと燃えないものの区分を記載してほしい。東京都指定の半透明可燃物用ゴミ袋には「この袋は炭酸カルシウム混合なので焼却しても有害物を発生しない」と書かれている。だからどうしたというのだ。それで「都は環境問題を真剣に考えている」と言いたいのか。袋を燃やせる材料で作っても、その中に入れる物を市民が間違えたら意味がないではないか。行政のみなさんにお願いする。収集用ゴミ袋にぜひとも分別の詳細を記載してほしい。政治家のみなさんにお約束する。「収集用ゴミ袋に分別の詳細を記載します」という公約を掲げたら、私は必ずあなたに投票する。

私たちは普段、あまり頭を使わずに「常識」でものごとを判断する。狭いコミュニティの中でならそれも有効である。しかし、世界に目を向けるなら、自分の「常識」を今一度見直すべきである。いやむしろ、普段の常識を批判的に検証することで、逆に世界が見えてくる。

といっても、我々のように全国を旅することでもない限り、常識(無意識に前提にしていること)を意識化するのは難しいだろう。私は、常識を見直すため方法として、「この常識は他の国でも通用するか」と考えてみることにしている。そのように冷静に考えてみると、普段使っている常識が、いかにローカルなものに過ぎないかが見えてくる。常識同士がぶつかりあうのを怖がっていては、時代は前に進まないし、ましてや国際化などあり得ないと思う。

さあ考えてみよう。あなたが海外に行った時、その土地で「貝殻は燃えます」と、はたして自信を持って言えるだろうか?

私の結論:私たちは「常識」の力によって、何が燃えるか燃えないかという簡単な判断さえ停止してしまう。かほど「常識」とは危険なものである。


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岩城 保(Tamotsu Iwaki)
iwaki@letre.co.jp