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日本国首相が靖国神社を参拝する権利

政治と宗教の話題
2001.8.15

※このトピックは受け取る人によってはかなり過激だととらえられる可能性があり、発表するかどうか迷ったのだが、やはり勇気を持って公開することにする。

今年(2001年)の8月13日、小泉純一郎首相(当時)が、靖国神社を参拝した。日本国の首相が靖国神社を参拝するのは5年ぶりのことであった。当然ながら、例によって、首相の参拝が良いか悪いかという議論が盛んに起こった。

議論は盛んではあるが(むしろ盛んであるので)、ここではその話はあまりしない。日本の首相が靖国神社を参拝することが良いか悪いかという議論を、ここで繰り返すことはしない。その代わりに、参拝が「良いか悪いか」ということ以外に、私には言いたいことがある、という点を強調してみたい。

小泉首相はどういう経緯で参拝に至ったのか。今回参拝したことについて、首相の談話が新聞に載った。談話には、「公式かどうか。私はこだわりません。総理大臣である小泉純一郎が心をこめて参拝した。」という言葉が含まれている。談話全体を読むと、小泉首相は「自分が参拝したいと思ったから参拝した」と、要約すれば単純にそういうことのようである。さすが、話がわかりやすいと評判の首相だけあって、談話も実に簡潔でわかりやすい。

では私の意見を言わせていただくことにしよう。小泉首相は、首相であるとはいえ日本国民の一人である以上、自分の意志で自分が望む神社に自由に参拝する権利は、当然ある。だから、首相の靖国参拝を禁ずべきだ、というような極端な議論は、ちょっと無理があると私は思う。逆にじゃぁ参拝に賛成なのか、と問われれば、とんでもない、大反対である。理由は、「イヤだから」。

首相が靖国神社に参拝するのは、良いか悪いかは別として、私はイヤである。強調するが、これは私が個人的にイヤだと思っているということであり、首相が参拝して良いか悪いかを言っているのではない。内閣総理大臣のような職にある人が、靖国神社を参拝すると、私が個人的に迷惑するので、やめて欲しいと、私は思っている。なぜ迷惑かを一応説明しておくと、私は韓国人の演劇やパフォーマンスに照明スタッフとして参加することが時々あるのだが、そのような韓国人とのつきあいがある中で、首相が靖国参拝をしたりすると、私が「日本人」であるということが人間関係にマイナスに影響することがあるのである。実際にまともに影響することはあまりないが、少なくとも、私自身は余計な気をつかわなければならない(雑談で時事問題を避けるとか)ので、私の負担は増える。したがって迷惑なのである。さてしかし、私は首相の参拝を止める権利も権限もない。私が小泉純一郎氏に対して使える権利は、選挙権というものすごく弱っちい権利だけである。

そういうわけで、首相の靖国参拝は私個人的には止めていただきたいと思っているわけだ。私が首相に対して言いたいことは以上である。しかし、ここで話を終えてはあんまりなので、参拝が「良いか悪いか」という話も、やっぱりちょっとだけしておこう。小泉首相が靖国に参拝した結果、何が起きたか。韓国や中国で抗議行動が起こっている。あたりまえだ、というか、予想されたことだ。ここで、なんでわざわざ海外から批判されるとわかっている参拝をあえてするのか、という参拝批判意見も当然あり得るわけだが、私はあえて、それは言わない。首相の参拝は、ある意味「仕方がないこと」だと思っている。小泉首相の参拝は彼自身の信仰によるものであり、宗教的な理由からおこなわれたものだと思うからである。

ここで一つ思い出してもらいたいことがある。オウム真理教(アレフに改称)のことだ。あの宗教団体は、かつて凶悪な犯罪行為を行い、そのことで大きな批判を浴びているが、それでもその後も信者として、信仰を捨てていない人が多くいるらしい。私自身は「信仰」というもの自体を全く持っていない人間なので、宗教的な気持ちについてはよくわからないのだが、靖国参拝も、批判されながらの信仰という点でオウムと共通するものがあると想像する。かつての軍国日本は、非常に凶悪で犯罪的とも言える行為を行なって、それが国際社会で大きな批判を浴びたが、その行為の原動力の一つとなった神社を、いまだに宗教的な理由により参拝している、ということに着目すれば、「オウム」と「靖国」とに類似が認められることは明らかである。

ちょっとふざけた国語の問題

○○○は、以前に、犯罪的としか言えないような残虐な行為をおこなってしまいました。しかしそれは、少数の誤った指導者が扇動した行為であり、末端の者はある種の宗教的な義務感で行動していただけなのです。今では私達はそれは誤りであったと深く反省しています。現在の○○○には全く危険性はありません。それを示すために今の私達にできることは、ただ静かに、純粋な気持で、犠牲になった方々の冥福を祈るだけです。

※上記の文の○○○の部分に、「日本国」を入れたり、「オウム」を入れたりして音読してみましょう。

繰り返して、断固言うが、「オウム」の問題と「靖国」の問題は、いずれも宗教の問題だという点が共通している。そこに目を向けるべきであり、また、そこから目を背けるべきではない、と私は思う。

私の結論:「靖国」は本質的には宗教の問題であり、政治や外交の側面だけから議論するべきではない。


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岩城 保(Tamotsu Iwaki)
iwaki@letre.co.jp