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左利きは身体障害か

身体障害に関する話題
2004.6.1

もちろん違う。「左利き」は身体障害とは言えない。私の女房も左利きだが、彼女は「身体障害者」ではない。今さら言うまでもなく、法律や医療現場において「身体障害とは何か」についてはある程度明確に定義されていて、「左利き」はその定義に合致しない。したがって、左利きは身体障害ではない。しかし私はそんなつまらない結論を確認するためにこの話を始めたのではない。私はここで、「身体障害の定義」について議論するつもりは全くない。「身体障害」という言葉を見たり聞いたりしたとき、誰でもある「イメージ」を持つと思う。あなたが今持ったそのイメージは、多かれ少なかれ、身体障害の「定義」とは、ずれているはずである。私が問題にしたいのは定義ではなく、そのイメージのほうである。「身体障害」と聞いて、あなたは、私は、なぜそのようなイメージを持ったのか。そこを考えてみたいと思う。

仮にある人が、「左利きは身体障害だ」と発言したとする。そのような発言をした人は、左利きというものをどのようにとらえていると、あなたは(あるいは世間は)考えるだろうか。下記の内から選んでみてほしい。

  1. その人は、左利きを差別している。左利きに対して偏見を持っている。
  2. その人は、左利きに対して中立・公平な見方をしている。
  3. その人は、左利きを偏重している。左利きに公正以上の権利を求めている。

ちょっと誤解を招きそうなので繰り返すが(ぜひしっかり読んでいただきたい)、左利きが身体障害だと思うかどうか、を問いたいのではない。「左利きは身体障害だ」と発言した人が仮にいたとして、その人のことをあなた自身はどう思うか、世間はどう思うか、という質問である。

さて答えだが、結論を言ってしまうと、1〜3のどれもあり得る。この質問への答えは、左利きや身体障害に対する偏見の多少によって1〜3のどれにもなり得る、というのが私の考えだ。私の推論では、昔は2を回答する人が多かった。それが、時代が進むにつれて、多数回答は2から1へ変わり、さらに1から3へと変わっていくと考えられる。障害者の権利が十分に守られ、障害者福祉が十分に充実した社会が実現したら、世間の回答は3に落ち着くに違いない。

近代化が成る前の昔、左利きは本当に身体の障害だと考えられていた。つまり左利きは「不運なこと」であり、「不自由なこと」であった。そればかりか、「不吉なこと」とすら考えられることさえあった。だから、左利きは「矯正」をさせられた。そのような時代にあっては、「左利きは身体障害だ」というのが、左利きに対する一般的で公正な見方であり、世の中の多くの人は、上記の質問に対しては2を回答したと考えられる。

もう少し時代が進むと、左利きは障害ではなく「普通のこと」と考えられるようになった。左利きは無理に矯正する必要はなく、左利きは左利きのまま、右利きの人と同じように日常生活を送ることができてしかるべし、と考えられるようになった。今まで右利きだけに使いやすいように作られていた道具や設備には改良が加えられ、左利きの人も「不自由なく」使えるような工夫がなされた。この時代にあっては、左利きの人は左利きであることを「不運」だとは思わないし、「不自由」だとも思ってはいない。それを矯正しようとも思わない。だから、「左利きは身体障害(だから矯正する必要がある)」というような考え方は時代遅れであり、左利きに対する偏見だととらえられる。この時代の人の多くは、上記質問に対して1を回答すると考えられる。この時代は「身体障害」という言葉はまだ悪い意味を持つ。21世紀初頭である現在は、ここにあたるかもしれない。

さらに時代が進むと、障害者の福祉について世間の理解が進み、その権利がきちんと保証された社会になる。そのような時代にあっては、「障害者である」とはすなわち、行政や公共機関によるしかるべき補償を受ける権利を持つ、ということである。障害者は、まだまだ日常生活に不自由はあるものの、それ相応の補償を受けることで、障害の無い人と変わりなく社会活動に参加することができる。この時代では、「たかが左利き」を身体の障害などと大げさな言い方をするのは誤りだととらえられる。障害とは、社会で保護しなければならないレベルの人に使う言葉である。しかるに、左利きに対して特別な保護措置など必要はない。左利きは身体障害(だから特別に保護すべき)だと言うのは、左利きを偏重しすぎた発言である。この時代の人の多くは、先ほどの質問に対しては3を回答すると考えられる。この時代では「身体障害」は必ずしも悪い意味ではなくなっている。

もっと時代が進むと、目が見えない、耳が聞こえない、手や足が使えない、といったことも、左利きと同様、全く「普通のこと」と考えられるようになる。昔は、左利き、目が見えない、耳が聞こえない、手や足が使えない、といったことは、どれも「不運」で「不自由」な「障害」であった。しかし、この進んだ時代では、それらの人も生活に不自由は無い。だから、左利きでも、目が見えなくても、耳が聞こえなくても、本人はそれを「障害」だとは思っていないし、それを治したいとも思わない。そのままで幸せで便利な人生を送っているからである。このような時代には、「身体障害」という言葉そのものが消滅している。左利きも、視力や聴力がないのも、手や足を動かせないのも、単なる身体的な特徴にすぎない。それまで、目が見えて手が動かせる人だけに使いやすいように作られていた食器やステーショナリーには改良が加えられ、目が見えなくても、手を使わなくても何不自由なく食事が出来るようになっている。かつて左利き用の道具が多く開発されたように、視力や聴力のない人、手足が使えない人のための道具が、数多く開発され、使用されている。

と、私の妄想は広がるわけだが、賢明な読者ならおわかりのように、話はそう単純ではない。「右利き」と「左利き」は対称だが、「障害」と「健常」は対称ではない。そこがこのSFのトリックであり、そこに破綻がある。左利き用のツールを作るには、ほとんどの場合、右利き用のツールを単純に鏡像変換すれば良い。しかし、視覚障害、聴覚障害、肢体不自由のためのツールは、そのような単純変換ではできない。ツールが簡単にできないからこそ、「人の助け」がどうしても必要になる。残念ながら、左利きの例を単純に障害者問題に応用することはできない。

しかしである。技術的な問題はまだまだ困難を極めるとしても、イメージや偏見など、人の精神による事柄については、今すぐにでも改善を始めることができるはずである。左利きがかつては身体の障害と考えられていて、現在はそうではなくなっているという事実には、障害者に対するイメージや偏見を改善していくための重要な示唆が含まれていると、私は思う。

私の結論:障害への偏見が無くなったとき、それは障害には見えないはずである。


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岩城 保(Tamotsu Iwaki)
iwaki@letre.co.jp