喫煙者を救え!


●「当たり前」と「不思議」が入れ替わる

さて、こうして私はタバコをやめることに成功した。タバコをやめた理由が「怒り」に始まっていることは述べたが、実際にやめてみると、他にも、予想外の収穫があるものである。

顔色が良くなったとか、胃のむかつきに苦しめられることがなくなったとか、そういう、健康についての収穫もたしかにある。しかし、何と言ってもタバコをやめて得られた最大の収穫は、「タバコを我慢する必要がなくなった」ということである。おわかりだろうか。この文は、喫煙者が読むと変な感じがする表現かも知れないが、逆に、元からタバコを吸わない方には、この文のどこが変なのかわからないと思う。

タバコをやめたので、タバコを我慢する必要がなくなった

タバコをやめるというのは、タバコを我慢することではない。私がここまで意図的に「禁煙」という言葉を避けてきたのにお気づきだろうか。「禁煙」という言葉は、「喫煙者が喫煙習慣をやめること」という意味も確かにあるが、多くの場合はそうではなく、「ここで喫煙してはいけません」という意味で壁に貼られる言葉である。そこには「タバコを我慢する」というニュアンスが入っている。それは今の私にはあてはまらない。したがって私は「禁煙している」のではない

私はタバコをやめたのである。私流に「禁煙」という言葉を定義させてもらうなら、喫煙者が一時的に喫煙を停止するのが「禁煙」である。私はもはや喫煙者ではなく、タバコをやめて既にノンスモーカーなのであるから、「禁煙した」という表現は不適切に思えてならない。「禁煙」とは、喫煙者に対して使う言葉であると思うし、「禁煙」を繰り返すだけでは、絶対にタバコをやめることはできない。なお、「タバコをやめる」という意味の的確な熟語が存在しないのも、私は何か陰謀的なものを感じてしまいそうになるが、まぁそれはさすがに無いであろう。

思えばしかし、以前はずいぶんみじめな生活をしていたものだ。喫煙時代は、よくよく考えてみれば、日常が我慢の連続であった。

これでは日常生活のほとんどの時間が、タバコを吸っているか、タバコを我慢しているかのどちらかである。しばらく吸わないと吸いたくなって、吸えばその時は満足するが、吸ったことにより次にまた吸いたくなることが約束される、という悪循環である。なぜこんなアホらしいことに18年間も縛られ続けていたのか。しかも、なぜそのことに何の疑問も持たなかったのか。まったく不思議である。

夜中に帰宅して、タバコが尽きそうなことに突然気づいた時の恐怖。慌てて時計を見る。この時間ならまだ買えるか? いや自動販売機はもう「販売中止」だ。しかしあそこの店まで行けば店内で買えるか...非喫煙者の方、身近なスモーカーに聞いてみると良い。喫煙者なら誰でも、夜、自宅近辺のどこの店で、あるいは販売機で、何時までタバコを買えるかを正確に把握しているはずである。深夜にタバコが切れる時のあの怖さは、味わった者にしかわからない。マインドコントロール下で与えられる恐怖だから、それはそれはとてつもなく怖い。しかしその恐怖も、もう二度と味わわずにすむのだ。これは大きな収穫である。

そして私にとってはもう、その恐怖感は遠い記憶の彼方に去りつつある。もちろんそれで全くかまわないのだが、当時の気持ちを思い起こすと、私はできるだけ長い間、喫煙者の気持ちがわかる人間でいてあげたいと思う。


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岩城 保
iwaki@letre.co.jp