喫煙者を救え!


●嫌煙運動について

今の時代、さすがに「嫌煙権」という言葉はほとんどの皆さんがご存じだと思う。 この「嫌煙権運動」(嫌煙運動とも言う)の主張を簡潔に言うと、

タバコを吸う人は、他の人の迷惑にならないように吸って下さい。 他の人に迷惑をかけなければ、タバコを吸うこと自体はかまいません。

ということである。おそらく、日本の非喫煙者のほとんどが、この嫌煙運動の考え方に同調すると思われる。しかし、私は違う。私は上記の考え方には反対である。だまされてはいけない。嫌煙運動のような考え方をすることは、「死の商人」の思うつぼである。

嫌煙運動は、タバコを吸うのは自由意志である、ということが前提になっている。 しかしそれは違う。喫煙習慣は自由意志ではない。

趣向を変えて、こんなたとえ話を作ってみた。

ある駅に列車が止まっていた。試しにみんなで車両の中に入ってみた。行き先はどこにも書いていない。何か面白いものがあるわけでもない。

一部の人は、すぐその場で降りた。残りの人は、どこに行くのか興味を持ち、そのまま降りなかった。気がつくと列車は動き始めていた。ゆっくりだが少しずつ加速している。いったいどこまで行くのだろう。列車はゆっくりと走り続け、いつまでたっても止まらない。扉は開いているから、いつでも飛び降りられる。でももう少しだけ、乗り続けてみよう。

そうしているうちに、列車の速度は加速し、今となっては、もうかなり速い。この速度で飛び降りたら怪我をしそうだ。もう飛び降りられない。こんなことなら、もっと速度が遅いときに飛び降りておくんだった...

この状態のとき、列車に「自由意志で乗っている」とは言わない。最初は自由意志が関与したかも知れないが、今はただ降りられないだけである。このたとえ話は、喫煙習慣を完全には説明していないが、あてはまる所もある。

ほとんどの成人は(ノンスモーカーでも)、いままで一口ぐらいはタバコを吸い込んだことはあると思う。最初の一口は誰にとっても「けむい」。そのけむさを受けて、続いてどういう行動をとるかが、喫煙者となるか非喫煙者のままで済むかの分かれ目となる。

ある人は、こんなけむたいもの、もう二度といらない、と思う。そういう人は非喫煙者となる。 しかし、別のある人は、 こんなにけむたいけど、いかにもおいしそうに吸っている人がいる、何か秘密があるに違いない という好奇心を持ってしまう。そして、「けむく感じないような吸い方」を研究し始めてしまう。この瞬間、喫煙者となることが確定する。タバコが仮に本当においしければ、そんな研究をすることも無いだろうに。タバコはその「けむさ」や「まずさ」が好奇心を呼び、好奇心からある一定量の摂取をし、一定量の摂取が依存症を生むのである。これは史上最強の罠である。タバコは、けむく、まずいからこそ、依存症になるのである。

おいしく感じるような「秘密」など、もちろん何もない。しかし、本人は何かあると信じて、二口、三口と吸ってしまう。そして、軽いめまいがしていることに気付く。喫煙習慣の初期だけに見られるニコチンの「効果」である。今までに体験したことのない、恣意的なめまいの体験。これで完全に喫煙者の仲間入りだ。あとは坂道を落ちるように、違う吸い方をしてみたり、別の銘柄を試したりしながら、知らず知らずのうちに体内のニコチン濃度をどんどん上げていく。もう抜けられない。このレベルで既に、やめようと思ってもかなり難しい段階まで中毒は進行している。本人はまだ好奇心のつもりでいても、中毒は確実に進行している。依存症を自覚して後悔するのは、ずーっと後のことである。

「死の商人」の策略は見事である。毒性や依存性についての情報を巧みに隠し、「リラックス」とか「味わい」とか「大人の嗜好品」といった誤った情報をリークし、新しい依存患者を確実に生み出していく。青少年向けの覚醒剤使用を防止するポスターはよく見かけるが、同枚数の喫煙を防止するポスターも作ってはどうか。たまに喫煙防止ポスターを見かけても、同じ薬物である覚醒剤に比べその記載内容はずっと甘く、まるで「アルコールと似たようなもの」という扱いである。なぜか。正しい情報を出し過ぎて新たな喫煙者が生まれてこなくなってしまうと、「死の商人」としては困るからである。こうして喫煙者は作られる

タバコを吸うのが自由だなんて、とんでもない話である。覚醒剤中毒患者が覚醒剤を摂取するのは自由か? コカイン中毒患者は、他人に迷惑をかけなければ自由にコカインを吸っても良いのか?

喫煙者は病気である。病名は「ニコチン依存症」。その病人達を、喫煙所という場所に隔離し、「どうぞその中ではご自由に毒物を摂取して下さい」と言う。これが嫌煙運動というものの実態である。嫌煙運動家の人たち、あなたがたはタバコの毒性を主張し、受動喫煙の害を言う。それだけタバコの毒性を知っているということだ。それなのに、喫煙者に対しては「毒物の摂取は個人の自由だ」という言い方をするのか。

喫煙は本人の自由意志ではなく、薬物依存によるものである。いや、喫煙者自身に尋ねたら、「喫煙は自由意志だ」と誤った答えを言うかも知れない。それもやむを得ぬ。マインドコントロールされているのだから。薬物依存やマインドコントロールには、治療が必要なのである。その実態に目を向けなければならない。どうか、「毒物の摂取は個人の自由だ」などと言わないでいただきたい。そんな嫌煙運動は喫煙習慣を温存させ、「死の商人」の商売を助けるだけである。

嫌煙運動家の方たちにお願いする。喫煙者は病人なのだ。どうかいたわってあげてほしい。「喫煙者なら死んでもかまわぬ、本人が悪いのだ」と言う態度だけはやめて欲しい。「喫煙の問題はノンスモーカーには一切関係ない、とにかく迷惑だけはやめて欲しい」と言いたくなるのも理解はできる。そういう権利ももちろんある。でも、本当に無関係で済ませて良いことなのか?

では、同様に無関係と思われる薬害エイズの問題はどうだろうか?

オウム真理教の問題は?

増加する少年犯罪は?

その他の社会問題は?

これらをすべて、あなたには全く無関係だと言い切るのか? もし、これらの問題のどれか一つでも自分に引き寄せて考える余地があるなら、喫煙の問題も同様に考える余地をいただけないだろうか。


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岩城 保
iwaki@letre.co.jp